がらくたばこ

記憶のがらくた突っ込んでます。それだけです。

まじないと呪縛

 最近、知り合いが柔軟剤を変えた。ちょっとあまい、きつい柔軟剤の匂いは、グレーの布団がかかったダブルベッドを思い出させる。煙草で穴のたくさん空いたグレーのシーツの上には、一面にステッカーが貼られたマックブックに、安物の麻のバッグ、ぬいぐるみたちが転がっている。煙草の匂いが充満するその部屋のなかで、布団と彼だけが、あまい匂いを放っていた。

 匂いは呪い。たくさんのひとがそう言っているし、わたしもそう思う。でも、匂いが思い出させるのは、彼自身じゃなくて、彼の部屋とか、彼の衣服とか、彼の髪の毛とか、そういうの。しかも、感触を思い出させるわけじゃなくて、写真みたいに切り取った場面を頭のなかに浮かべさせるから、やさしい呪いなんじゃないかなって思う。みんな知ってる?もっと強力な呪いはね、温度なんだよ。

 

 大きな背中の、あったかくて安心するその呪いは、いまでもわたしを解いてくれない。わたしはいまだに、彼のそれより安堵させる体温を知らない。その体温を思い出しちゃったらもう最後。感触が鮮明に蘇ってきて、まるで今も一緒にいるようなそんな錯覚を起こさせる。血が通ってる人間からしか感じられないその温度は、今わたしがひとりぼっちじゃないということを強く感じさせてくれた。やさしい魔法だったはずのそれは、いま酷い呪いになってわたしを苦しめつづけている。鮮明に思い出せば思い出すほど、今わたしが孤独であることを痛感させられるし、もうそのぴったりの温度がどこにもないことを知らせてくる。その体温があるのは、わたしの思い出のなかだけ。温度に連動して、いろいろな感触が思い出される。やわらかい掌の感触や、その先のまんまるい爪、意外と筋肉のある二の腕、まっしろで汚したくなる首元のキャンバス、うなじにかかる、さらさらとしたお日様の温度を吸収する真っ黒い髪。すべて私の中に収めようとして、なんども触れた。そんな過去の自分がいとおしくもあり、忌まわしくもある。

 わたしの肩や胸を濡らす、あたたかい涙も心地がよかった。涙が心地いいのは征服感や支配感が安心を与えるからだと思っていたけれど、もしかすると、温度のせいなのかもしれない。彼の温度がわたしに直に触れて、わたしに染み込んで、あったかくさせるから、好きだったのかもしれない。体液っていうのは、そのひとの温度を直に伝えてくるから。唾液も精液も汗も、気持ち悪さの中に心地よさがあったのは、彼の温度が適温すぎたんだなあ、きっと。今更気づいてももう仕方がないのに、なんだって気づくのはあとからで、呆れてしまう。

 

 匂いがおまじないの類のやさしい呪いだとしたら、温度は呪縛の類の呪いだとおもう。どちらも呪いであることには変わらないし、きっとかけた本人以外解くことはできないけれど、温度という呪縛は自分と相手がいっしょになってかけてがんじがらめになっているから、解くときもきっと一緒じゃなきゃいけないんだろうな。

 だけど、わたしには解っている。呪縛を解きに彼のもとへ行ったとしても、もっと深い呪縛に苦しめられることになるということが。だけど、それでもいいんだ。呪縛はきらいじゃないから。なににも縛られない孤独な人生より、なにかが縛ってくれる人生の方がわたしの好みだから。

素直な人間

 素直な人間が好きだ。

 これは、自分自身が馬鹿正直で、良い意味でも悪い意味でも嘘を吐けない気性だからかもしれない。もちろん、人を傷つけないためのやさしい嘘、というものが存在するのも知っているし、ある程度歳を重ねてきて、そういう嘘の大事さに気付けるようになったけれど、それでもやっぱり素直な人間のほうが好きだなと直感的に思ってしまう。

 人は必ず死ぬ。死なない人間なんていない。この世の中できっぱりと断言できる数少ない物事のうちのひとつに、死がある。いつ死ぬかわからないんだからいまを突っ走りたい、と自分勝手に生きているわたしにとって、死を直視できるほどに素直な人間は愛おしく、ありがたい存在である。逆に、「まあ、人生百年時代なんだしさあ、ちゃんと先のこと考えなよ」なんて言われると、いくらわたしを想っての発言だとしても、「あーなんか合わないのかもな」と感じてしまう。うまく説明できないけれど、本能が告げる直感だと思う。いま急に心臓発作を起こして死ぬかもしれないのに、最近連絡を取っていないあのひとはじつは亡くなっているかもしれないのに、死に備えるなんて不可能じゃ?と感じてしまうのだ。身近すぎて備えられない。もちろん備えあれば憂いなしって言葉通り、お墓も葬式資金も用意しておけばいつ死んでも構わないのかもしれないけれど、そういうことじゃなくって、いつ死ぬかわからないからこそ確実に在るいまと真正面から向き合いたい。

 死に関してわたしの持つもうひとつの考えは、人がひとり死んだところでみんなそんなダメージを受けない、ということ。心のどこかにぽっかり穴が空いて寂しい感じはあるが、傷はいつのまにか癒え、かさぶたになって痕がのこったとしても穴自体は塞がる。この感性をなんとなくでも理解してくれるひとは、きっと、わたしが愛したくなってしまうような素直な人だと思う。

 

 恋人や友人に関して、よく「価値観が合う人がいい」「価値観が合わなかった」なんて言葉が多用されるが、価値観が合う人間同士なんてきっと存在しない。居心地のいい空気感、というのはあるが、価値観はおそらく全員違うし、ただ、なんとなく近かったり、考え方がまるっきり違ってもゆずれてしまうほど愛している、というのを、「価値観が合う」と表現しているのだと思う。

 

 こういうことを書いていると、自分がいかに面倒くさく、恋愛が不向きな人間か判ってしまって虚しいが、まあ、自分に嘘は吐けないのでしかたがない。いつ死ぬかわからないんだし。

ポッキーゲーム

 ポッキーの日、もうほんとに凍えそうに寒いなか、わたしときみは結ばれた。「いっしょにコンビニに寄り道するの夢なんだよね」と呟いてみたら、それが実現した。きみが食べていたのはプリンで、わたしはカスタードクリームの入ったたい焼きを食べた。「毎年ポッキーゲームしようね」って言われて、なんだか恥ずかしくて、「そんなに長続きしてるかわかんないよ」なんて思ってもみないことを言った。結局その約束は二回実行されたんだけど。

 ほんとうにしあわせだった。たのしかった。でもいつのまにかそれは崩れていって、ほんとうのしあわせが何か分からないところにまできていた。

 

「ほんとうにおれのことすきなの?」

 

 素直じゃなかったわたしは、何度もこう訊かれた。そして何度も泣かせた。好きだよ、ごめんね、上手に伝えられなくてごめんねって何度もきみを抱きしめて、でもどこかできみの涙に安心してた。ああ、このひとはまだわたしのことすきなんだ。泣くほど心を揺さぶられてるんだ。腕の中に感じるたしかなぬくもりと、こぼれる涙のせいであつくなった腕に酷く安堵していた。毎度されたこの質問は、ほんとはわたしがずっと訊きたかったことだったんだ、と今ならわかる。きみの口を借りて、きみの涙を借りて、自問自答してた。

 

 それから歯車が狂い出して、だけどわたしはきみみたいに素直に質問はできなかった。だって、解ってたから。すきじゃないよって言われるのが。だからいつだって怖くて、「わたしのことすきになってね」って、そう言ってた。だけど、きみの返事はつれなかった。「当たり前だよ」って返ってきてたはずの答えは、いつしか「頑張るね」に変わってた。

 

「わたしと一緒にいたくない?」

 

 自分が傷つかないように、それでも核心に迫りたくて、そんなわたしが口にする質問はこれで精一杯だった。「別にそんなことはないよ」って答えに安堵して、どうにか一緒にいようとしてた。「一緒にいたい?」とか「好き?」とか訊いちゃうとさ、ほんとの答えが見えちゃうでしょ。でもね、一緒にいたくないのも好かれてないのもほんとは解ってたから、知ってたから訊けなかったの。曖昧な答えに苛立ちながらも、勝手に都合のいいように解釈して自分を慰められるから。

 だけどはじめて「いたくないかもね」と返されたあの夜、いままで以上に酷く安堵したんだ。もうこれ以上無理やり答え合わせしなくていい、頭と心がばらばらにならなくていいんだって。だから、だからね、ありがとう。いつだってきみは素直だった。

 

 いつかまた出会えたら、素直なきみを見習って、ひとつ正直に吐露したい。「約束、また有効にしよう」って。

美意識

美意識っていつ芽生えるんだろう。人間の考え方っていつ大まかに定まるんだろう。まあ人それぞれなんだと思うけれど、わたしの美に関する概念は中学のとき生まれたものでできているきがする。

 

わたしの通っていた中学は、「かわいい女のコ」がカースト上位に属していた。「かわいい女のコ」というのは顔はもちろんだが、品があったり、文字がかわいかったり、仕草や持っているものまでかわいかった。髪の毛もなんだがつやつやしていい匂いがしていたし、運動部なはずなのになぜかみんな真っ白だった。そういうコたちは、夏場はほぼすべての休み時間毎に日焼け止めを塗っていた。しかもそういうコたちは、無駄毛が生えていない。昔のアイドルみたいなものだ。「オナラも排便もしない」、そういうふうに思わせるコたちだった。

そのコたちは涙ぐましい努力をしていたんだとおもう。化粧やおしゃれに制限のある中学校という狭いコミュニティのなかで、いかに「かわいい」を生み出せるか。自己プロデュース力が高いか。そういうのに長けているコたちが、カースト上位に配属されていた。

わたしはそういうコたちを見て育ってきたし、憧れた。いわゆる「陰キャ」だったけれど、そのコたちに憧れて、かわいいものを集めてみたり、ファッション誌を読み漁ったりした。ブスなりにヘアケアも頑張りだした。そうすると、そのコたちが「可愛いね」と褒めてくれる。それがわたしの生き甲斐だった。

 

ブスは生きる価値なんてなくて、かわいいコしか生きていけない。こうやって文面で見るとなんて息の詰まるコミュニティなんだろうとかんじるが、わたしはいまでもそれが当たり前に感じる。だからどうにかして自分のブスを殺そうといまだに奮闘している。

 

けれど高校は、男女ともに、おしゃれはしたいひとがすればいい、そこまで「美」は意識されない、という風潮だった。これが正しいんだとおもう。

けれどやっぱり植え付けられてきたものは大きくて、周りにもそれを強制するつもりなんていっさい無いが、自分に無駄毛が生えているとゆるせないし、鏡をみれば「かわいいあのコ」はそこにはいなくていつだって凹む。どれだけヘアケアをがんばっても、あのコみたいな艶は生み出せないし、どれだけ化粧をがんばっても垢抜けない。加工しても加工しても理想には近づけない。

SNSで見るあのコは、いまだにきらきらしていてかわいい。あの頃とさほど変わらないのに、けれど霞まない。どんな血の滲むような努力を重ねてきたんだろう。しかも、それを怠らず、それどころかそのとき以上に努力しているというのがSNSからでも伝わってくる。わたしはまだまだ未熟だ。いつかあのコに近づけるよう、がんばらなくちゃ。

 

(こんなの書いてる暇あったら自分磨きしろよ)

おはよう

わたしにはなんにもない

ほんとに冗談抜きでなんにもないんだ

そりゃあ大事なものだとか手離したくないものだとか欲しいものとかだったなら山ほどあるけどさ

それはぜんぶじぶんの外っかわにあるもので

わたしに在るものじゃなくて

だからこそ手離したくなくなったり欲しくなったりするんだけども

つまり自分に備わってるものがなにひとつないんだよ

悔しくて虚しくてわらってしまうな

手離したくても手離せないようなそんななにかがほしいなって言ってるうちはだめだね

 

 

 

せめてわたしの今日がわたしのなかでいちばん輝いてくれますように

電車に揺られながら

よる

さいきん眠れない夜がつづいている。眠れない、というよりは眠らないだけなのかもしれない。夜ってなににも縛られない、静寂と暗闇の、動物の音と星と月の明かりだけが頼りな、現代における唯一の自然なのかもしれない。あーあ、小難しい文章はきらいなのに、小難しい文体でしか書けなくていやんなるな。

 

ひとりぼっちになったから、暇がふえた。ひとりぼっちになった?ううん、人間なんてもともとひとりぼっちだったな。それを誤魔化し薄めて信じて歩いてたから、見放されたみたいなきもちになるだけ。まあとにかく、ひとりの時間が増えて、ひまになって、趣味が欲しいなって模索中。どうして絵を描くことは立派な趣味になるのに文章を書くことはあんまり趣味とされないのかな。なーんか不満だから、ひさしぶりに文章を綴ってみてる。

けどなにもかけない、えがけない。結局凡人だからつまらない文章しかかけない。自分のこころも躍っていないのに他人のこころを動かせるわけない。

 

もちろんたのしい時間がないわけじゃない。けど、いまはなんだか暗いというか、なにも掴めないというか、そういう気持ちだから、文章も暗くなっちゃうみたいだね。

 

ところで、腐ったみかんってあるでしょう。有名なお話。腐ったみかんをみかん箱に入れると、ぜんぶ腐っちゃうっていう。腐敗は伝染する。

 

ねえ、わたしたち、誰がいちばん最初に腐ったのかな。まだおいしく食べてもらえるかな。暗い夜じゃ、腐ってるか腐ってないかも見えないね。それじゃあ、実は腐ってないことを期待して、今夜は眠ることにしようか。おやすみ。

距離感

ひとに嫌われるのって、こわい。とってもとっても、こわい。

だれにも好かれなくていいから、だれにも嫌われたくない。……ほんとうは、できるだけみんなに好かれてたい。

まー、そんなことがむりなのはわかってる。けど、ひとを嫌いになるのが苦手なわたしは、自分のことを嫌いなひとさえ好きになってしまうから苦しい。わたしが好きになればなるほど、対象は離れていって、わたしを嫌いになってしまう。いつもそう。いつもそうだよね。なんでなんだろ。わかるわけないか。

距離感をはかるのが下手くそすぎる、んだろうな、きっと。

 

過去、大切なひとがいた。心の底からいとしかった。でも、その自分の感情に気づいた瞬間、わたしは距離感を誤った。すきだから、近づきたいとおもった。すきだから、知りたいと思った。彼女のぜんぶを観たくて、魅せられたくて、そしてぜんぶを肯定したかった。彼女は躁鬱の気があって、自分に自信がないようだった。そのぶんまで、わたしが愛してあげたかった。でも、それがだめだった。

彼女はわたしを避けるようになった。嫌いあってるわけじゃない。むしろ彼女はわたしを好いてくれていた。だけど、「わたしはきみの思うような人じゃない。気持ちは嬉しいんだけど、期待がこわい。ほんとうのわたしを知ったら、どう思うのか。」と言われた。そして、それから、彼女と疎遠になった。いまならわかる。この気持ちがどれだけ重荷だったか。でも、解るけど、わかるからといって、わたしのこのだめなとこを簡単に変えられるかっていったら難しいんだよね。疎遠になっても、わたしは彼女のことが気がかりだった。そのあいだ、共通の友人から安否を聞いて、それで満足していた。

 

そしてさいきん、また彼女と話すようになった。「褒めてくれて、認めてくれてありがとう。自己肯定感あげたいときは話にくるね」と彼女は話してくれた。

わたしはそれで満足で、都合のいい相手になりたいだけ。てことは、わたしも彼女とか、そういう離れてくひとたちのこと、都合よくおもってる、てことなのかな。

 

うーん。わたしが大切なひとに離れられてしまうのは、自分に問題がある気がしてきたな。火のないところになんとやらと云うし。明日からは、がんばります。おやすみなさい。