がらくたばこ

記憶のがらくた突っ込んでます。それだけです。

さがす

どこかへ出掛けたい。さいきん切実にそう思う。

あーあ、なんかよく解んないウイルスのせいでこんなことになってて困るな、旅行っていちばんのリセットだって云うのに。

 

旅行したい欲は、定期的にやってくる。なにもかも投げ出してどこかへ行きたい。自分となんら深い繋がりのない、自分を縛るものもひともいない、遠い土地へ身を投げだしたい。縛りとか規律だとか、やらなきゃいけない守らなきゃいけない “それ” をぜんぶ忘れてしまいたいんだよな。でも結局、繋がりのない土地はやっぱり繋がりがなくて。当たり前だけど。繋ぎ留めるものがないどころか、手放そうとしてくる、ような気がする。わたしを要らない土地に、わたしは居られない。

必要とされてないってつらいじゃん、けど縛られるのもいや。ちょっとワガママすぎるか。

 

最近、近所の野良犬に餌をあげるのをやめた。よく懐いてたし、お互いに必要としてた、気がしてた。気がしてただけ。

ちゃんと飼わない無責任さがちょうどよかっただけだったし、向こうも飼われない気軽さがよかったんだよね。いままでだったらどうしようもないとき野良犬と慰めあってたけど、もうやめた。

これからは自分で自分の機嫌とるしかないんだよな。……おっかしいなあ、野良犬と出逢うまでは「自分の尻は自分で拭え」がモットーだったはずなんだけど。

 

 

まあ、強く生きるしかないね、旅と犬以外のなにかを探します。

 

 

 

プロポーズ

せっかちなひとはこっから本編

 

あー。なんかさみしい。

 

最近、きゅうに暑くなった。梅雨のせいだろうか。じめじめした気温って、まとわりつく髪とか服もうっとうしいけど、なんだか心のなかまでヤなかんじになる。某ウイルスのせいでぜんぜん季節の変わり目を感じとれていなかったが、梅雨によって “6月” を身をもって思い知らされた、ようなかんじがする。

いまも、外で蛙がうるさく合唱中。蛙の合唱ってよく言うけどさ、そんな聴き心地のいいもんじゃあないよね、コレ。不協和音だよ。映画「天使にラブ・ソングを」に出てくる、最初の合唱団レベルだよ。シスターメアリークラレンスがやってくる前の。あー、げこげこうるさい!

 

なんだか、なつの夜は、さみしい。この涼しい暗闇のなか、ひとり取り残されてるみたいな気がする。そんなわけないのに。そう、そんなわけない。ほんとうにひとりぼっちだったら、まずこんなブログやってない。そうでしょ?……いや、まあ、だれも見てないかもしれないけど、だけど見てくれるかもしれないひとはいるんだから、ひとりぼっちじゃない。あー、だけどさみしいな、やっぱり。

 

さみしいわたしは、急に愛のはなしをはじめようとおもう。

なになに?唐突だねって?まあいいじゃん、終わりも始まりもないもんなんだからさ、日記って。ひとりごとなんだから、ゆるしてほしい。

 

 

無償の愛、っていうことばをよく耳にする。だけどわたしは、そんなものないとおもっている。だれもが知る名作、『星の王子さま』でも、キツネはこう言っている。「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」って。つまり、人間、自分が手塩にかけた時間分、その対象に情が湧いちゃうんだよね。その情を愛って呼ぶんだと、わたしはおもってる。だから、愛って、結局依存。過去の自分に対する依存。ね、簡単であほらしいでしょ。あほらしいけど、むずかしい。

でも、どれだけ愛が嘘まみれだっていいから、わたしは愛されたい。ていうか、そんなひとばっかりでしょ、世の中。

 

愛って具体的に、なんなんだろうなあ。ひとそれぞれなのかな、愛のかたちは。

 

  

わたしは、……わたしは、そうだなあ、ありふれた言い方しかできないけど、美味しいもの食べさせてあげたいとか、かっこわるいとこも愛しいとか、汗もいやじゃないとか、それから、「いますぐあいたい」って言われて、自分のできるかぎりのはやさで会いにいっちゃったりだとか……、そういうのが、きっと、愛なんだとおもう。

 

さいきん、いとしいとおもうことが増えた。

なにもかも、素直にいえないけど。

 

毎日を分けあいたい、幼い頃誕生日にたべたホールのケーキみたいにさ。きみになら、特別にネームプレートの部分だってあげちゃう。それくらい、それくらい大きくなってしまった、わたしのなかで。

まどろみのなかでの愛のささやきも、無防備な寝顔も、わたしよりすこし高い温度も、抱きしめる腕のつよさも、ぜんぶいとしくて、おもいかえすと苦しくて、きゅうって胸が締め付けられる。ふざけてるわけじゃなくって、体毛すらいとしいんだよ。おかしいよね、わらっちゃうよね。

わたしは四六時中かんがえてるのに、いつだって忘れられないのに、きみはそんなことなさそうで、ずるい。しあわせそうな姿を祝えないのは、わたしの弱さだ。わたしのことでだけ、感情を揺さぶられててほしい。ねえ、傲慢かな。傲慢だね、ごめんね、だけど、わたしをこうさせたのはきみだから、責任とってわたしの感情のいちばんふかいところ、ずっとずっと支配しててね。わたしの特別枠に居座りつづけてね。それでいい、それがいいや。

 

けっきょくプロポーズ。

おわり。

いぬころ

やっぱり時は情を生む。いい意味でも悪い意味でも。

さいしょはなんてことなかったのに、いつのまにこんなに膨らんでしまったんだろう。誰が膨らませたんだよ、この風船。誰の息で大きくなったんだよ。……たぶんわたし自身だなあ。わたしと、きみと。うーん、きみとっていうのは、ちょっと願望が混ざりすぎてる気もするけど。

 

おたがいにずるくて、悪かった。けど、悪くなりきれなかった。どこかいい子ちゃんな部分もあった。たぶんね、わたしもだけど、小中を優等生で過ごしたんだよね。愛の手に入れかたがへたくそで、とにかく勉強だとか、そういうので親に褒められた。「ああ、こうしたらぼくを好きでいてくれるのか」って、そればっかやりつづけた。顔色伺って生きてきたんだよね、結局。だから嫌われるのが怖くて、悪い子にはなりきれない、ずるくてひどいふたりに成長した。

 

ねえ、おぼえてる?わたしはぜんぶおぼえてる。忘れられなくて困ってる。

きみもそうだといいな。全部すっかり忘れちゃったのかな。だれか知んないけどさ、あたらしい子とは仲良くやってる?わたしもうまくやってるよ。わたしは、最初っからうまくやってる。結局きみよりこっちが大っきかった。ごめんね。でもきみも大きかったよ。こうやって、きみ “も” って付け足しなのが悪いくせだよね。

 

いっしょにさ、バッセン行ったよね。わたし、そういうのどうしても苦手で、見てるばっかでノリ悪かったよね。なんか今日ふと思い出して、そのとき撮った動画と写真探したんだ。けどなかった。グーグルフォトにだってなかった。あー、昔の自分、めっちゃえらい。ちゃんと消してた。きみにも送ってないから、もうわたしの記憶にしかないね、あの姿。

 

いっぱい歩いた。ぜったい車道側あるいてくれた。やさしいね。だれにでもやさしい、って振られただけあるね。うん、ほんと、だれにでもやさしいよ、わたしも思う。

帰りみち、遠回りしよって見たことない道歩いたりさ。コンビニの前の喫煙所ではなしたり、あ、海外のひとに声かけられてタクシー呼んであげてたね、ほんとやさしい。やさしいとこはあんますきじゃなかったけど。でも、わたしはいつも、きみのやさしさの煙に巻かれてた。まっしろのなかで、なにも見えないふりしてた。

歩道橋も登ったねえ。わたしが景色見るとさ、かわいいって言ってくれて。ぴょこぴょこ歩くのもかわいいって言ってくれたし、タタタッてはしって振り向くのもかわいいって言ってくれたし、あー、あー、あー。またかわいいって言ってくんないかなあ、嘘でいいから。駄目だね。やっぱだめだよ、誰にでも言うのはやめときな。年上が言うんだから、守るんだよ。ね。むりだろうけど。

 

はじめてさ、男のひとの肩幅ってしっかりしてるんだ、とか、そういうの知った。きみのかすれた声がすきだった。嘘くさい笑いかたがすきだった。嘘みたいにわらう。たぶん、きみなりの自衛だったんだろうとおもう、生きていく上での。敵作りたくないくせに敵作るようなことしてみたりさ、ほんとばかだなあ。ばかだよ。わたしもきみも。

楽器倉庫、は、もうぜんぶ詰まってるね。あそこはわたしにとって、きみ一色になってしまった。ギターじゃなくて、ベースじゃなくて、楽器じゃなくて、きみとの思い出をしまっておく倉庫だった。卒業したからもう行かないし、そのタイミングで思い出ともさよならするべきだったのかもね。できたのか、一応。わかんないなあ。教科書置いたりするたびに思い出してたけど、きみはどう?そんなことなさそうで悲しいな。あと半年、いっぱい倉庫つかってよ。

 

んー、なにが言いたいんだろう。わかんなくなってきた。

 

ほんと最低なこと言うけど、人生でいちばん興奮したのは、きみとの公園だった。ぜんぶどきどきした。はやく、はやくってつづきを待った。でもずるいから言わなかったし、きみも傷つくのを恐れて、けっきょくつづきなんてこなかった、連載打ち切りだった。ばちがあたったんだなあ。

 

 

あのね。たぶん、すきだったっていうより、依存してた。

依存されることにも依存してたし、すぐ電話出てくれて、けっきょくわたしの元へ帰ってくるきみにあまえてた。

お互いずるいよね、おわらせなきゃって言いながらぜんぜんおわらせないんだもん。あーあ、おわらせたのはわたしだった。おわらせたくせにこんなタラタラ綴るなよ。けど、ほんと、いい思い出だよ。

 

だけどこれはぜんぶ思い出補正で、美化で、じっさいはそんなことなかったんだろうなって  ちゃんと胸に抱いて   

終着点のないまま文を終わります。

 

おわり

消化したくてもできない思い出ってある。そもそも、記憶として残ってしまってる時点で消化する気なんてさらさらないのかもしれないけど。

 

誰かに聞いてほしくて、でも話せる内容じゃなくて、ちょっとでも吐き出さないとしんどいからどうしようもないような記憶についてぐちゃぐちゃの文章にしてみたいとおもいます。